ある天才ホルニストとの思い出 ズデニェク・ティルシャル

 彼との出会いは1986年に新星日本交響楽団が招聘したときに遡る。たぶんチェコ人の最初の知り合いになったのではないかと思う。彼は17歳からチェコフィルでホルンを吹いている。人は彼のような演奏家を『天才』と呼ぶのだろう。ティルシャルにとってホルンという楽器はまさに普通に人と話をするのや、歩くのと同じでなんの違和感もなく体に同化しているようだ。人柄は穏やかで、誰の目からも好感のもてる人物である。そんな彼が突然、散歩中にたおれて亡ってしまった。63歳だったがまだまだ現役でホルンを吹いていた。

 チェコの管楽器の音色や奏法は他の国々と少々違っている。モーツァルトの手紙の中にもその記述はあり、「ここボヘミヤの管楽器奏者の美しいハーモニーとその独特の奏法は私を驚かせるのに充分な魅力がある。」と記している。特にホルンの音色は深く柔らかい、隣のドイツがまっすぐで金属的な響きなのに比べるとチェコのそれは木管的で豊かな整数倍音が含まれ、細かい息のビブラートを伴った優しい音色である。それはホルンに限ったことではない。クラリネットという楽器がオーケストラで演奏する場合、普通ビブラートをかけない。しかしチェコフィルをはじめボヘミヤのオーケストラでは豊かなビブラートをともなって演奏されることが伝統とされている。新世界交響曲の4楽章にあるクラリネットのソロをこのボヘミアのクラリネットで体験すると、ほかはすべて物足りなく感じてしまうのは私だけだろうか。残念なことにここ20年ぐらいこのキャラクターが薄れてきてしまい、他の国とおなじような演奏者が増えてきた。

 現代チェコを代表するホルニスト、バボラック氏はプラハで勉強した。しかしベルリンフィルのなかでは正統ドイツ吹きをしていた。そのバボラック氏と室内楽の仕事をしたときのことである。曲はモーツァルトのホルンカルテットであった。
どんなに一緒に演奏している弦楽器がドイツ系でも彼のモーツァルトはチェコ人の奏でるそれに間違いはなかった。自分自身の血がモーツァルトをとおして自然に蘇るのだろうか。

 ティルシャルとの仕事はそのどれもが私のターニング・ポイントとなった。
まず最初のCDは新星日本交響楽団のライヴであった。リヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲第1番とブラームスのピアノ・トリオそして数曲のピアノ伴奏曲である。このCDは初めて海外演奏家と仕事をしたものであり、その演奏技術の素晴らしさ故、無編集でマスターをあげたものである。当時まだ25歳の若造ミキサーにも彼は丁寧な挨拶をしてくれたことを憶えている。次に彼と仕事をしたのは、再びオーケストラの招きで来日した時である。
短い期間であったが私は新星日本交響楽団のオーケストラ事務局員として働いていたときである。ティルシャルの同行マネージャーをした。その前年、私はドイツに2ヶ月ほど求職の旅に出ていた関係でドイツ語で話をすことが出来た。飛行場に迎えに行くとまず彼から、英語しか話さないのか、ドイツ語はできるか?と聞かれた。多分ドイツ語で、私がドイツ語でもかまわないことを告げると彼は、ほっと安堵して「よかった。前回はなにがなんだか分からなかったので今度は安心して滞在することが出来るよ。」と話してくれた。何でも日本にはチェコフィルと何度も来ているし最初の来日は私は幼少のころだという。しかしソロで来日するのは数回目で本当のところ心配でしょうがなかったという。この時にはR.シュトラウスの協奏曲2番のソリストで招聘した。その本番にあたってのリハーサル、彼の楽屋で話をしていると、楽器を持ちだしてウォームアップをすると思いきや、一番難しいその協奏曲のパッセージをなんのよどみもなくすらっと吹き、私に向かって「素敵な音楽だね。」と一言。さあリハーサルに行こう。と告げられた。

 ああ神様は平等じゃないなあ、と「天才」を目の前にした凡人を味わった。彼のたっての願いで、自分の娘を日本に連れて行きたいとのこと。オーケストラは承諾し共に来日した。スラヴ系の十代の女性はもれなく美しい。彼女も現れるやいなやオーケストラの楽員の目が輝いた。通訳しろだの東京のどこに行きたいか来てこいだの、まあうるさいパパラッチのような独身男性団員が多かった。
このときのライヴは残念ながらまだリリースされていない。
 
 そんなティルシャルと次に出会ったのは彼の職場であるチェコフィルであった。1990年の来日時、当時キャニオン・クラシックでディレクターとして仕事をしていた江崎氏と初めて大きな仕事をしたときである。オーチャード・ホールではドヴォルザークの交響曲7番、9番を収録した。指揮は巨匠ヴァーツラフ・ノイマン、ティルシャルのサウンドは全くのかげりもなく、豊かな音色でホールを満たしてくれる。ボヘミアのホルンの代名詞とはこのような音である。

 その後、ポニーキャニオンの仕事で、マーラーの交響曲2番そして彼のソロが活躍する第5番を収録した。とくにこの第5番の交響曲の3楽章は楽譜にもオブリガート・ホルンと通常の編成以外に記譜がある有名な楽章である。ティルシャルは前回のマーラー交響曲チクルスの収録(同じ指揮者でスプラフォン原盤)ではこのソロは担当していない。まさしく真骨頂、決定版と言えるだろう。
 ここで、チェコフィル、ノイマンのマーラーについて少し私の思いを記したい。20世紀後半には世界のほとんどのオーケストラがマーラーを演奏するようになり、指揮者のアプローチにより様々な演奏が聴かれるようになった。日本やアメリカにおいてはマーラーの伝道者として作曲家の弟子であるワルターとその後継者バーンスタインが筆頭にあげられることが普通かもしれない。
 しかし、マーラーが生まれ育った場所はボヘミヤの森と草原にほど近い場所であり民謡はオーストリアとチェコのものである。 
チェコ人指揮者、ラファエル・クーベリックは1968年プラハの春の動乱の時はチェコから亡命しのちに西ドイツ・ミュンヘンでマーラーを積極的に取り上げ交響曲全集をレコーディングしている。
 同時に東ドイツからチェコに帰国したヴァーツラフ・ノイマンは地元プラハの世界的オーケストラ、チェコ・フィルハーモニー交響楽団と全集を収録している。この全集にはマーラー協会からメダルが送られている。
 彼らの演奏はマーラーを母国の作曲家とみなし、あくまでもボヘミアとオーストリア民謡を使った交響曲というアプローチをしているように思えてならない。その故、一般的な世界的(戦後の西側陣営とユダヤ人演奏家)視野からみると少数派に属してしまうのは残念でならない。何故ならばマーラーの交響曲はその主題がすべて歌からできたもので、その大胆な管弦楽法やパッションだけを云々するにはあまりにも表面的過ぎてしまいもったいないと思うからである。

 そのノイマンとチェコフィルの2番目のマーラーチクルスの収録にプラハに訪れたときティルシャル氏と再会出来たことは本当に嬉しいことだった。彼の家に招かれておなかいっぱいになるまで彼の奥様の手料理をごちそうになり、ポーランド国境にほど近いチェキッシュパラディース(チェコの楽園)という別荘地にある彼の別宅に連れて行ってもらったことは忘れられない思い出となった。
 彼のBMWセダンで娘夫婦と共に行った森は、まるでヘンゼルとグレーテルの絵本に出てくるような深い森、空気が見えるような感じがしたことを今でも憶えている。彼の別荘の管理をしている家族達と楽しい時間を過ごし、「日本語を聞いたことがないのでなにか喋って欲しい。」といわれて困ったものだ。家の外壁にはぺしゃんこに潰れたナチュラルホルンが貼り付けてあり、ここが誰の家かすぐ分かるようになっていた。兎がたくさん飼われていたので、手にのせて遊んでいたら「食べるかい、おいしいぞ」と云われ、そうかここではそういうことも普通に行われている。大昔から人々は変わらなく穏やかに暮らしているのだと、ほっとしたことを思い出す。この風景、空気、風習がマーラーやドヴォルザークのあのサウンドの和声や響きを作り出すきっかけだったのかとしみじみ思う事が出来た。

 そういえば、イギリスのホルンはまっすぐな吹き方ではっきりとした発音である。それは荒れ地の多いグレート・ブリテン島で遠くまで信号を伝えるためには必要だし、ドイツの黒い森では反射率のたかい野太い音で狩りの招集をするのに必要である。そしてボヘミヤではそう高い山もなく森も深くないので、柔らかなホルンが獣たちを驚かせずに人間が狩りをするのに都合が良かったのではないかと勝手な想像も、概して遠くない推測だと思っている。

 ティルシャルの演奏は、マーラーにおいても常に全てを包み込む柔らかな音色でフォルテシモの音量でもけっして割れることのないものだった。これは編集をしていて気づいたものだが、何故、彼のような発音でもオーケストラのテンポに決して遅れることなく演奏できるのか不思議だった。ホルンの近接のマイクのみを聞いてみると、わずかに彼はトッティのオーケストラより前に発音をしていることに気がついたのだ。それは計算して出るということなど不可能であるだろうほど短い時間(数ミリセカンド)であった。
 天才とはこういうものなのだと思い知らされた。
その後、ティルシャルとモーツァルトの協奏曲全集を収録することとなり、プラハの暑い夏の日、ルドルフィヌムでその録音は行われた。指揮はマエストロ ズエニェク・コシュラー、オーケストラはチェコフィルチェンバーであった。
 彼のソロは完璧でやり直しなど一切必要が無いほどだった。なんとオーケストラのアンサンブルのためにテイクを重ねるだけで、誠に恐れ入ったことを憶えている。CDジャケットの撮影の時にライトの手伝いをしたことなど今では懐かしい思い出である。
そんな彼が突然、亡くなった。あの別荘の近くの森を孫娘と散策中に突然、心臓発作だったそうである。たばこを根本まで吸うヘビースモーカーであり、お皿にだされた料理はまるで拭いたかのようにきれいに食べ残さない、人の悪口や愚痴など誰も聞いたことないほど素敵な人間だった。立派なボヘミヤ紳士が、その最も彼らしい場所を選んで亡くなったのは、本望であったら嬉しいと思う。

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